60歳からの人生(旅)ノート

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家づくりの本質~無駄のある家

家を作ることはお金もかかるし、失敗は許されないと思う。
ローンも組んで、欠陥住宅などつかまされたらたまったものではない。

それは確かです。だから、住宅メーカーも設計士も安全で、確かなモノ、且つ快適でお施主様が望む家を作りたいと頑張ってます。
でも、1年、2年・・・住んでいるうちに、ここはああすれば良かった、こうすれば良かったと文句が言いたくなる・・・そんな気持ちも理解できないわけではありません。事実、私自身自分の家に対してそういう気持になるのですから。でも、家づくりって、どんなに綿密な計画を立てて設計したところで、100%完璧な家など出来るものではないのです。

以下は、故白洲正子さんが家について書かれた文章です。武相荘でこれを読んだ時、家づくりの本質はまさにこの通りだと思いました
感じ入ってメモしてきましたので、備忘録の為にも書いておきます。

「 無駄のある家」

  鶴川の家を買ったのは、昭和十五年で、
 移ったのは戦争がはじまってすぐのことであった。
 別に疎開の意味はなく、かねてから静かな農村、
 それも東京からあまり遠くない所に住みたいと思っていた。
 現在は町田市になっているが、当時は鶴川村といい、
 この辺に(少なくともその頃は)ざらにあった極くふつうの農家である。
 手放すくらいだからひどく荒れており、
 それから三十年かけて、少しずつ直し、今もまだ直しつづけている。 

  もともと住居はそういうものなので、
 これでいい、と満足するときはない。
 綿密な計画を立てて、設計してみた所で、
 住んでみれば何かと不自由なことが出て来る。
 さりとてあまり便利に、ぬけ目なく作りすぎても、
 人間が建築に左右されることになり、
 生まれつきだらしのない私は、そういう窮屈な生活が嫌いなのである。
 俗にいわれるように、田の字に作ってある農家はその点都合がいい。
 いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。
 ひと口にいえば、自然の野山のように、無駄が多いのである。 

  牛が住んでいた土間を、洋間に直して、居間兼応接間にした。
 床の間のある座敷が寝室に、隠居部屋が私の書斎に、蚕室が子供部屋に変わった。
 子供たちも大人になり、それぞれ家庭を持ったので、
 今では週末に来て、泊まる部屋になっている。
 あくまでもそれは今この瞬間のことで、
 明日はまたどうなるかわからない。
 そういうものが家であり、人間であり、人間の生活であるからだが、
 原始的な農家は、私の気ままな暮らしを許してくれる。
 三十年近くの間、よく堪えてくれたと有りがたく思っている。

                   『縁あって』「思うこと」より